不平不満とどうつきあえばいいのか?

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今日はどうしても書きたい気分になった原因となるメッセージから・・

 

SunriseB.jpg

 

どこからこの不思議な偶然をお話しすればいいのかわかりませんが、私はとても驚き、そして感動しながらこのメールを書いています。

実は私はミクシイは4年ぐらい前から初めて3年半ほどつづけ、半年前に脱会しました。そのときはもう完全にやめるつもりでした。

やめたくなった原因はある日あることにはたと気づいたことからでした。私の日記は不平や批判ばかり書いているんだってことにでした。日記だけではありません。私は自分の生活でもずっと不平や不満や批判ばかりいっていたのだと思います。とても驚きました。もったいないことです。

しばらく考えていて、そういう生き方ばかりしていたこと、そんな自分にほとほと愛想が尽きて、そんな生き方をやめたいと思いました。

でも1つ気になってやめることを随分躊躇しました。どういういきさつかわからないのですが、数年前偶然私ははっちさんのページに遊びに行かせていただいて、すごく素敵な方で面白い人だなあととても引き付けられていました。お気に入りに登録してときどき読ませていただいていました。

いつかマイミクさんになっていただけたら嬉しいなあと願いつつ、でも私の方がクローズドにしていましたので、まったく接点がなく残念で仕方がなかったのです。
で、悩んだあげくやめることを選択しました。過去の日記を全て消してしまいたかったのです。

数ヶ月たって、やはりミクシイに戻ってきてしまいました。そのとき一番にはっちさんのページが懐かしくなって検索したのですがどうしても見つかりませんでした。はっちさんと入れるとなぜか猫のはっちちゃんばかりでてくるんですよね^^

で、すっかり諦めていたところに、今日たまたま足跡を見てみたらはっちさんの名前があって本当にびっくりしました。でも内心、ポチッと押したら猫の写真がでるんだろうなあと半分以上諦めながらたどってみたら、なんとご本人でびっくりしました。

本当に信じられない偶然ですが、神様がくださったチャンスだと思って勇気を出してメールをしました。

あまり嬉しかったもので、突然深い内容のメールを送ってしまって申し訳なく思います。もし不快な思いをさせてしまったらお許しください。

 

 

 

というわけで、ご本人の承諾なしで勝手に掲載してしまって申し訳ないが、他意はなく、今日の日記の絶好のテーマとして使わせていただくという趣旨のため、お許しいただきたい。

基本的に不平不満やそこから生まれる批判というのは、自分に向けるべきものだと思う。

政治などの自分が解決できないことに不平不満や批判を並べたくなったら、身近なことでやるべき事がないかどうかを考えた方がいいだろう。

 

自分に向けている限り、不平不満やそこから生まれる批判というのは、マイナス面ばかりではないし、また大きな問題にはなりにくいのだ。

その場合、心のバランスを取るための、安全弁としても働くため、生きるための「必要悪」という言い方ができるだろう。

どんなに前向きに考え、取り組んでも・・というより、前向きだからこそ、目指す夢との乖離が不平や不満という形になるわけだ。

 

 

それにかなりの時間と手間とお金をかけ、その不平不満を解消したとしても、今度は思いもかけなかった不平不満が出てくるもの。

つまり、不平不満は言い出すとキリがないことになる。

だから、ひどくない程度の「不平不満」を残しておいて、さらなる不平不満が入り込む余地をなくしておく、などという手も使えるわけだが・・

 

ただ、それだと進歩がなくなることもあるわけで、あちら立てればこちら立たず。

正攻法でいえば、批判よりも、解決法を見つけてそれを実行することだ。

うまくゆけば、これがベストなつきあい方だといってもいいだろう。

 

 

「気持ち」という心理状態に影響する原因というのは複雑で、またその対応も一筋縄ではゆかないことは、みなさんもよくご存じのとおり。

このことは歳を取ればとるほど、厭が応なしに認めざるを得なくなるわけで、生きている限り「つきあわなければならない」厄介なシロモノだともいえるだろう。

だから、不平不満のある生き方大いに結構!

というか、あって当たり前なのではないだろうか。

 

 

だが一方でその感情を中和させることで、この厄介な代物とのつきあいが、少しラクになるという知恵も、歳を取るにつれてついてくるわけだ。

じゃあ、その中和剤というのは?

情に感動する涙、感謝の気持ち、無償で与える愛、笑い、幸福感、などと数え上げれば、人生の経験に応じて「それなり」にいろいろあるだろう。

だが、それをどうやって毎日の生活の中で実行するのか?

という難問が控えている。

 

 

別の言い方をすれば、自分に対しての満足感を、どのようにして与えればいいのか?

ということにもなるのではないだろうか。

DVDで映画を見て情に感動する涙、うまいモノを食べたときの感謝の気持ち、運転中に道を譲るという無償で与える愛?、家族が織りなす笑い、温泉の幸福感など、私も様々な手を使っている。

だがこれだけは、TPOに応じて、そのときに即興でやってみなければわからない、という側面も持ち合わせている。

さらに、たとえそれが同じ方法論であっても「気持ち」という移ろいやすい感受性によって、効くときとダメな場合とに分かれるから、この手のハナシはややこしくなりがちだ。

 

 


それと若いときに持ちやすい純粋な「10割打者を狙う完璧主義」は、行き過ぎると往々にして、不平不満によるひどい反動を喰らいやすいため、注意が必要だ。

時には自分への「やさしさ」が、すべてを癒してくれることがあることは、忘れないようにしたいもの。

やがてそれは、人にも向けられるはず。

 

空振りをしたときは、舌をペロッと出し、苦笑いのあとで忘れよう。

人が空振りしたときの気分がわかるようになる「きっかけ」というのは、意外なところで見つかるものなのだから。
 


 

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