「努力できる人」は脳が違う

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退屈な作業をやりとげようとする意欲の強い人と、途中であきらめてしまう人がいる。

こうした「脳の違い」が何故起こるのかを明らかにする研究が行われた。

と始まる WIREDのコラム をご紹介。

マルコム・グラッドウェル曰く「どんな才能や技量も、10,000時間の練習を続ければ「本物」になる」という。

また多くの研究から「成功を収めた人物は、熱意と、多大な努力を行う能力にも恵まれている」という現象が、明らかになっている。

 

 

記事では具体的な例には触れていないが、私なりに思いあたる内容が多かったため、書きながらまとめてみた。

 

私の仕事では、訓練という「決して楽しくはないこと」を、粘り強く繰り返しやり遂げられるのかという資質が、成否に大きく影響することになる。

こうした努力は、意外にも他の仕事では、あまり問われない部分なのだ。

仕事を終えたあと、自宅で仕事に関するスキルを磨き続けなければならない仕事の例を挙げるのは、かなり難しいはず。

だが私にとっては、この問題は、大げさに言えば死活問題だったわけだ。

 

やりたくはない訓練でも数多くやっているうちに、それなりの面白さが生まれることがある。

ただし、少し工夫が必要になる。

つまり最初から高い目標を設定すると、「もの凄く大変そうだ」という壁が立ちはだかりやすいのだ。

 

そういうときは、もう少し目の前の「ちょっと頑張ればできそうな目標」をまず設定することにしている。

近いところにある「できそうな目標」をやり遂げる方が、遠いゴールを延々と目指すより、心理的には遙かにラクだからだ。

だが身近な目標であっても、「達成感」は遠いゴールをクリアできた時と、同じたぐいのもの。

 

つまり大きな達成感を一気にモノにするのは大変でも、目の前の近いゴールならできそうな気がするはずだ。

「達成感」からは面白さが生まれ、そしてそれはやがて楽しさにも繋がってゆく。

そうなるとしめたもの。

 

面白くないことをイヤイヤ耐えながらやるという意識の世界から、訓練が楽しみになるというワールドへ一気にワープできるのだ。

そして、それが他の人よりも、ちょっとばかりうまくできたとすれば、また別の嬉しさで脳内は満されることになる。

このようにして、ドーパミンを自分の脳内へドバっと放射するにはどうすればいいのか、とイロイロ工夫をするのは楽しいものだ。(笑)

 

こうした自分なりにドーパミンを放射させるにはどうすれいいのかは、人それぞれだろう。

脳というのは一度うまくゆくと、その味を覚え、次にも同様のことを期待するため、何とかしようと悪あがきをするわけだ。(笑)

これが努力のいうものの、実態なのではないだろうか。

 

一度この甘美な味をしめると、また味わいたいという欲求は際限なく高まることになる。

私の場合はね。(笑)

そのため、ああでもないこうでもないという膨大な取り組みは、苦痛ではなく、達成するための楽しいプロセスへと変身するのだ。

 

 

物事は違っても、成功した取り組みのプロセスというものは、他の分野でも意外に応用が効くものなのだ。

 

 

こうした方法のベースの部分は、私の場合、20歳台の音楽の仕事て、ある程度身につけることができたのだと思う。

とはいっても、後から気がついたことなのだけどね。

だが音楽での努力は、私の場合、経済的な基盤の構築には繋がらなかった。

 

音楽の世界では、自分の目標は成し遂げられなかったけれど、以後の仕事では、音楽を通じて身についたモノは、予想以上の効果を上げてくれることになったというわけだ。

楽器の練習を通じて努力できれば、他の分野での努力というものは、私の場合、遙かにラクに感じられたのだ。

しかも、音楽以外の世界では、こうした類の努力をする人が、相対的に少ないということがわかったのは、目から鱗だった。

   

私の仕事での経済的基盤構築という作業は、努力の結果が数字となって、比較的リニアに戻ってくる。

トレーディングというのは、人間関係や、上役の意向などといった部分は、良くも悪くも影響しない世界だからだ。

私にとっては、こうすればこうなるとわかっているのに、どうしてやらないのかが不思議だった。

 

一般的に努力の方法論やネタを知ると、「できた気」分になり、勘違いの素となりやすくなるのだ。

知識として目から鱗のやり方を知ると、実際に行動へ移す前に、「オレはやろうと思えばできるはずだから」と、実行に移す努力は後回しにして、さらに多くの知識を得るために探し回ることになる。

だが、そうして様々な材料を仕入れたとしても、それを実際に役立つ商品として創り上げることができるかどうかは、また別の問題なのだ。

  

 

たとえば、日記や文章を書くというプロセスを例として挙げてみよう。

どうすればうまく書けるようになるのかの方法論は、巷に溢れているから、多くの人は断片的になら、すでにかなりの知識を持っている。

だから教科書やマニュアルのようなものなら、こうした方法論は結構役に立つだろう。

だが、実際に読んで面白いものを、多種多様に書ける人というのは意外に少ないのが現実だ。

 

毎日の生活では、誰もが平等に24時間という時間を過ごすわけだが、そこでは平等な量の膨大な材料が生成されている。

だがその材料というネタを、文章という製品として魅力あるものに仕立て上げるには、どうすればいいのか。

こうした肝心なところは、どうすればうまく書けるようになるのかの方法論を知っているだけではダメなのだ。

すでに知っている方法論を使い、どういう製品を創れば商品として売れるのか。

 

できあがった製品に魅力がなければ、売れないのは当然のこと。

つまり魅力的な商品とはどういうものなのかは知っていても、それを自分が創り出せるかどうかは、別の問題なのだ。

ヒットする商品を創り出した体験は、その甘い果実を、また食べてみたいという想いを生み出すことへと繋がってゆく。

このようにして、魅力的な商品を創り出すための体験から得たおもしろさや楽しさは、努力自体を苦労と思わないものへと、変えてしまうのではないだろうか。

 

というわけで、すっかり長くなってしまった「オレオレ理論」は、ただの自己満足なのかもしれない。

だが、何であろうと、自分が信じることができるものを持つというのは、実にいいものだ。

という勝手なオチで、最後をしめてみました。

たはっ。(笑)

 

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