我々はどこへ行くのか?

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トレーディングで行き詰まっている方のため、高木善之氏が1981年に遭遇された臨死体験をご紹介しよう。

実はカミサンも臨死体験をしているのだが、驚くのは高木さんの体験と非常によく似ているという点だ。

より大きな視点で俯瞰することで、見えてくるもの、気づきなどがあれば幸いだ。

 

 

wantonのブログから引用させていただきます。 ↓

 

その日 昼寝から覚めると珍しくオ-トバイに乗りたくなった。そしてどこに行くでもなく国道一号線を京都に向かって走っていった。そして 気づいた時は遅かった。自動車がこちらに向かって走ってくる。何なんだ、これは !!! 分離帯のある国道でクルマがこちらに走ってくることはあり得ない。あり得ないから夢に違いない。ともかくブレ-キをかけなければ。だが、到底間に合う距離ではない。急ブレ-キの音。スロ-モ-ションのようにクルマが近づく。ゆっくりと接近・・・そして・・・ガッシャ-ン !!!・・・・・ん?痛くない。。。周りを見ると、オートバイが横転。バウンドしながら横すべりしていく・・・・自分の身体も吹っ飛び、道路に叩き付けられる・・・ヘルメットが壊れて 道路を転がっていく・・・それを見ている私。私は自分の交通事故を目撃しているのだ。ヘルメットは歩道を歩いている女の人の足元まで転がっていった・・・・

その人が振り向いた。゛あれは合唱団のSさんだ!!! おおい、僕だよ 僕だよ !!!゛Sさんはしばらく足を止めて事故現場を見ていたが・・・やがて行ってしまった・・・。Sさんが ゛大したことないみたい 私には関係ない・・・と考えているのがわかる。゛おいおい ひどいよ あれは僕だよ 関係はおおありだよ !!! ゛オ-トバイはガ-ドレ-ルに引っかかるようにして止まる。自分の身体も二度三度バウンドし「く」の字にねじれて国道の片隅に横たわっている。それを上から眺める自分。゛少しも痛くない。痛くないということは やはり夢なんだ゛。自分を眺めることが出来るということも夢以外にない。ああ驚いた。よかった、夢でよかった !!!

人が集まってくる。口々に色んなことを話している。「歩道にあげないと危ない」「もう死んでる」「死体は動かしたらあかん」「まだ生きている」「現場は動かしたらあかん」「オ-トバイからガソリンがこぼれてる。危ない」場所は国道一号線 自分が勤務する松下本社の手前の交差点。ちょうど救急病院がある。すぐに担架が運び出されてきた。私は担架で病院の中に運ばれていく。その横を酸素マスクを持った看護婦さんが走る。それを天井の高さで テレビカメラのように追う私・・・・私は検査室の診察台の上でレントゲンをたくさん写されている。「ひどいなあ これは・・・骨盤が砕けてる・・・足がはずれてる・・・・おっと 首の骨もだめだよ・・・ほら この手 ぐしゃぐしゃ・・・・ひどいもんだね・・・膝も 肩も・・・全身骨折だよ・・・・」医者が看護婦と話しながら検査している。・・天井からその様子を眺めている。

゛あんなにレントゲンを浴びて大丈夫なんだろうか゛右足は付け根から不自然に曲がり、首も不自然に曲がっている。首の骨が折れているか損傷しているのだろう。骨盤が割れて右足は付け根からはずれているのだろう。膝がねじれているから関節で折れているのだろう。しかし一番ショックだったのは左手 !!!ピアニストにとって 手は命と同じくらい大切。子供のときから指を大切にしてきた。遊ぶときも体操のときも、バレ―ボ―ルや柔道など、突き指や指のケガの可能性のあるものはほとんど避けてきた。それほど大切にしてきたこの手が、突き指どころか、手が手首のところで折れ曲がり、手の甲が手首にくっついてしまっているのだ !!!「これは無理ですね、うちでは。手の打ちようがない」゛おいおい それはないだろう。何とかしてよ゛結局 大学病院に転送された。初めて乗る救急車。サイレンが時々鳴る。゛そこどけそこどけ 僕が通る゛

一夜あけて手術が始まる。『天井からそれを見ている私。』まるでマグロをさばくように自分が切り裂かれていく。腰の右側が大きく切り開かれる。どす黒い血が流れ出す。゛ひどいものだ とても見られたものではない・・・・゛骨盤が割れ、右足が骨盤からはずれている。骨盤に穴を開けるいやな音。太いボルトが差し込まれ、骨がつなぎ止められる。゛ちょっとちょっと!そんなことしていいの?? 土木工事じゃないんだから゛とても見られたものではない。あまりの残酷さに目をおおう。場面が転換。ICU(集中治療室)にて。異様な姿。頭も顔もミイラのように包帯でぐるぐる巻き。足にはロ-プで重りがぶら下げられている。腕はこれまでに見たことがないくらい大きなギブスで包まれている。

全身固定-酸素マスク-口鼻にパイプ。腕には点滴。あちこちからパイプが出ている。血液と排尿のためか。ベッドの横にはオシロスコ-プ。脳波か心電図を取っているらしい。下半身から排泄用のパイプ。電極とオシロスコ-プ。思わず目を背けてしまう姿。まだ生きているのだろうか。しかし動かない。場面が転換・・・妻が医者から説明を受けている。「やるだけのことはやりましたが・・・・」妻が呼びかける。『お父さん大丈夫? お父さん、お父さん!・・・・お ― 父 ― さ ― ん !!!!! 』呼びかけは次第に大きな声になる。最後は絶叫。絶叫はたまらない。特に家族の絶叫は堪えられない。゛大丈夫。僕はここにいる。心配いらない、これは夢なんだ゛妻には聞こえていないようだ。伝わらない。『お父さん - お父さん - どうして ・・・・ど  う  し  て ー 』゛聞こえているよ。何か変なんだ。大丈夫だ、心配いらないってば゛しかし通じない。伝わらない。もういい。もう見たくない。

場面は転換。待合室で脅えているわが子に一生懸命呼びかける。゛大丈夫、心配いらないよ。何か変なんだ。あれはお芝居なんだ。何かの間違いだからね。これはきっと夢なんだ。お父さんは大丈夫だよ、すぐ帰れるから。今日は晩御飯は一緒に食べる日だからね。待ってるんだよ。゛ああ・・・やはり通じない。手応えが無い。映画「ゴ-スト」のような感じ。もういい。もう見たくない・・・

また場面は転換。ICUで寝ている自分。動かない。その横で妻がイスに座って見守っている。遺体が安置され、妻が不寝番をしているようにも見える。゛ 僕はまだ生きているんだろうか?もう死んでいるんだろうか??  ゛しかし こうして自分が自分を見ているということは・・・もしも夢でないとしたら・・・僕は死んでいるということになる・・・゛まさか、そんな馬鹿な !!! ゛私は今、河原に来ている。身体はないが意識だけがある。ちょうど夢の中のような感じ。私は河原の上、地上2~3メ-トルの高さにいるようだ。ここはどこだろう。賽の河原 ??? 賽の河原ではない。すぐに分かった。ここは愛媛県松山市の郊外、横河原。重信川という大きな川の河原。よこがわら・・この名前はいつも私に何とも言えない気持ち、涙ぐむような感情を呼び覚ます。

  

 

ここは、子供の頃 (3歳から6歳) を過ごした思い出の場所。子供の頃を思い出す時、田舎とかふるさとという言葉を聞く時、いつも思い浮かべるのはこの場所。私は大阪生まれだが、横河原は間違いなく私のただ一つのふるさとなのだ。父は肺結核の専門医で国立愛媛療養所の医師だった。結核は今ではほとんど忘れられた病名だが、当時(昭和20年代 )は猛威をふるっていた法定伝染病で、各地に国立療養所があった。私達は国立愛媛療養所の官舎に住んでいた。結核病院は人里離れた場所にあり、周りは山の中だった。隔離された場所だから遊ぶ仲間は少なく官舎のわずかな子供と、患者さんや看護婦さんが遊んでくれる程度だったが、むしろ一人のことが多かった。中でもその広い河原が好きだった。みんなで散歩したり、お弁当を食べたり、一人で遊んだりした。

この川と河原は、丸い石を拾って川の表面に投げて水切りをしたり、珍しい形の石を捜したり、水遊びをしたり雪すべりをしたり、いろんな楽しみを与えてくれた。その河原は非常に広かった。向こう岸は霞むくらい遠く、その先には森があり、そのはるか向こうには皿が嶺が聳えていた。その青い頂きには雪が見えることもあった。私はよくその河原の土手に座って その雄大な風景を眺めたり、夕焼けを見て感動したものだった。゛いつかあの向こう岸に、そしてあの山に、あの山の向こうまで行ってみたい ゛いつもそんなことを考えていた。今、ここに30年ぶりにやって来たのだ。しかし、景色は大きく違っていた。河原も重信川も見る影もない。広大な河原は、信じられないくらい狭くなっていた。雪すべりをした土手は護岸工事でコンクリ-トに変わっていた。広い河原も河川敷の工事でコンクリ-トで何段にも塗り固められていた。わずかに残された河原の幅は数十メ-トル。そして、そこには一滴の水もない。コンクリ-トで埋められなかったわずかの川底にやっと昔のままの石ころが残されていた。

゛川は、河原は、土手は、その土手の赤松はどこに行ってしまったのだろう ゛呆然と見回す。゛私の家はどうなっているんだろう ゛それとおぼしき場所を訪れる。ほとんどが草原だが かろうじてあの頃の家々の配置が分かる。自分の家のあった場所にやってきた。゛ああここだ。あの匂いがする ゛まさにあの頃の土の匂いを覚えていたのだ。はっきり分かる。ここが私の家の庭なのだ。あの頃、広々とした庭だった場所は今はただの草原。家も塀も両隣の家も周りの家も何もない。しかし、はっきり分かるのだ。あの時と同じあの匂いがするのだ。アカシアの、ヒマワリの、ダリアの、ガ-ベラの、カンナの花たちの匂い。それらの匂いは土の中に記憶されているのだ。゛ああ ここでキリギリスを捜した。ここでアリを見つめて一日しゃがんでいた。ここにカブトムシの来る大きな樹があった ゛

幸せだった時代の幸せの象徴が、まるで『雨月物語』のように今は草原になっているのだ。母の声が聞こえるようだ・・・・゛はやくおうちに入らないと日射病にかかるわよ ゛優しい母の姿がよみがえってくるようだ。おたまじゃくしを掬ったあの池は? 埋め立てられて運動場になっている。でも玄関前の生け垣はあのときのままだ。・・・・思い出の場所をすべて回り終えた。まるで巡礼が札所を回るように・・・・思い出の場所に別れを告げるように。”そろそろ行かなきゃ”子供の頃、夕方の汽車の汽笛が聞こえると、もう帰らなきゃ、と家に帰ったものだ。夕方のあの物悲しい感覚。

゛もう、行かなきゃ ゛・・・・すると徐々に自分が上昇し始めた。゛行かなきゃあ、でも行きたくない。でも行かなきゃあ・・・ ゛そんな思いで手足をバタバタと動かしてもがいているような感覚。゛今、僕はあの病室で死んだのだ ゛この思いは強烈だった。死ぬってこんなことだったのか ・・・・・・激しいショックだった。しかしやがてその事実を受け入れた。事実は受け入れざるを得ない。そして嵐が静まった。穏やかになった。

  

 

 
゛もう何もしなくていいんだ。もう全てが終わったんだ。 ゛そう思うと不思議と気持ちが楽になった。苦しみが去り、私はなめらかに上昇し始めた。今までのもがきやもつれがなくなり、ス~ッとのぼっていく。私の人生は、今終わった。したかったこともたくさんある。でも、出来なかったこともたくさんある。家族はどうなるんだろうか。仲間達はどうなるんだろうか。もっと優しくしておけばよかった。もっと仲良くしておけばよかった。ごめんね。でも、仕方がない。もう苦しむことも、ジタバタすることもない。あれこれ考えることもない。何もかもが終わったのだ。今、私は死んだのだ。゛さよなら。みんな、さよなら・・・ありがとう。みんな、ありがとう・・・゛苦しみが無くなり、なめらかに上昇し始めた。次第に高度が増し、目の前の風景が 遠くなる。河原の両岸が寄ってきて狭まり小さくなる。山々も集まってきて小さくなり、やがて四国が見えて小さくなる。

日本が小さくなり、そしてついに目の前に地球が現れる。゛これが地球なんだ・・・・これが僕が生きた地球なんだ・・・・゛強烈な衝撃・強烈な映像、その美しさ・・・・その大きさ、その厳粛さ・・・その圧倒的な迫力・・・その偉大さ、その美しさに感動・・・・幸せ・満足・充足・至福の感覚・・・突然、激しいショックを感じた。それは思い出した衝撃。長い間悩み続けた問いを思い出した衝撃。誰もが必ず考え、そして答えが見つからず、やがてあきらめてしまう 問い。゛自分とは何か?どこから来たのか?そしてどこへ行くのか?゛今、目の前に巨大な地球。本物の地球、三次元の地球・・・立体の地球が、圧倒的な迫力で語りかけてくる。

それを見たとたん、激しい衝撃。゛生きている。地球は生きていたんだ゛魂が揺さぶられる・・・・感動の涙がこみあげてくる・・・・今、自分が変わりつつあることが、はっきり分かる。自分が地球と宇宙とつながっていくような感覚・・・ついに分かった。一生問い続けた問い ?????゛自分とは何か。どこから来たのか。そしてどこへ行くのか。その答えを・・・ついに見つけたのだ。感動的な答え、それは・・・・光!すべてはひとつ!!命は光であり、光の世界から来て、光の世界に帰る。すべての生命は一つにつながっている。ああ、分かった・・・・これが分かればすべて分かる。何のために生まれてきたのかも分かる。どのように生きればいいのかも分かる。

なぜ、こんな簡単な事が分からなかったのだろう。すべては一つ。すべてはつながっているのだ。すべての謎が解けた。すべて分かった・・・・・もう、何もいらない。安心・安らぎ・満足・本望・・・・もう。何もいらない・・・・・安心していくことができる。安心して帰ることができる。もう、何もいらない。暗黒の宇宙の中で、地球だけが美しく輝いている。周りがゆっくりと明るくなり、音響が湧き上がってくる。光は、次第に輝きを増し、ハ-モニ-は強まってくる。やがて激しい眩しさに何も見えなくなり、轟音に包まれて何も聞こえなくなる。

ああ、今から光の世界に帰るのだ。自分の周りの強烈な光が、四方八方に飛び散っていく。光の世界に入って行く・・・・ここには何もない。物質的なものは、何もない。しかし、ここにはすべてがある。過去・現在・未来のすべてがある。未来永劫がある。永遠がある。めくるめく光の波。無数の映像、無数のフラッシュ。自分の過去・現在・未来のフラッシュ。自分の未来。再生~地球環境~平和運動~そして死。世界の過去・現在・未来のフラッシュ。宇宙の過去・現在・未来のフラッシュ・・・・宇宙には、はじめも終わりもない。10年後、ソビエトの崩壊。数十年後、アメリカの崩壊。さらに数十年後、世界の崩壊。未来は決まっていない。未来は選択可能。滅亡も進化も選択可能。未来は変えられる。それには、この道を進むのをやめればいい。左右に豊かな田園風景が見える。廃墟へと続くこのハイウェイから、田園に続く道におりればいい。

足をアクセルからブレ-キに移し、ハンドルを切って横道に入ればいい。未来はすべて決まっているわけではない。未来は現在につながっている。現在が変われば未来が変わる。宇宙は永遠、精神生命体も永遠。すべては一つ。自分は死んだのだ。そしてあの世(光の世界)に来たのだ。物質的なものは何もない。ここには何もない。お花畑も河原も。天国も地獄も無い。ここには物質的なものは何も無い。宇宙のように何も無いのかと言えば、そうではなく、空間も無いのだ。ちょうど目をつむって何かを考えているような感じ。意識やイメ-ジはあるが、物質的なものは何も無い。あるのは意識だけ。ちょうど暗闇の中で考えているような感じ。自分の身体は無く、ただ意識だけがある。自分の意識とは別に、もう一つ巨大な意識がある。その意識はすべての意識の集合体のようなもので、全体意識とよんでもいい。

自分はこの全体意識の一部なのだ。全体意識にはすべてがある。全体意識には過去・現在・未来のすべての出来事、すべての記憶がある。過去の記憶、現在の出来事だけでなく、未来の記憶もある。例えるならば、私はス-パ-コンピュータに接続されたパソコンのように、知りたいことは何でも知ることができる。むしろ全体意識の中に自分(自意識 )があるといってもいい。ここには過去・現在・未来という時間の流れも無い。例えるならばすべて現在である。時間は意識の中に認識としてだけ存在する。光の世界はゼロ次元である。ゼロ次元というのは、空間も時間も無いという意味である。光の世界には何も無い。あるのは意識だけである。光の世界はこの世のすべての場所、すべての時間に存在する。光の世界はこの世とつながり、この世のすべてを包んでいる。過去現在未来は一つのもの、全てが現在である。例えるならば、曼荼羅の絵のようなもの。生命とは何か。長い間追い求めていた問い。その答えが分かった。

生命とは、光。生命は光の世界から来て、光の世界に帰る。生命は一つ。光の世界では、すべての生命が溶け合って一つになる 。それだけでなく、この世でも生命は一つにつながっている。生まれること、死ぬこと。光の世界とは白い大きな雲のようなもの。生命は光の世界から来て、光の世界に帰る。雨粒が白い雲から降って来て、蒸発すれば白い雲に帰るように。生命は光の世界では一つになっている。雨粒は白い雲の中では一つになっているように。生命にはそれぞれの役割があり、その役割を果たすために生まれてくる。雨粒にそれぞれの働きがあるように。落ちて来た一つの雨粒に「前世は何か」と尋ねると、その雨粒は困るだろう。一つの雨粒には無数の分子が含まれ、その一つ一つに過去=前世があるからだ。世界のあちこちに降った雨が、世界の川や湖に流れ、海にそそぎ蒸発をし一つの雲に帰る。そこですべての過去の記憶は一つになる。

そこから降ってくる雨粒には無数の過去があり、その中の一つの過去=前世だけを論じることは出来ない。誰にも無数の過去=前世があり、その一つだけを問題にする必要はないし、その一つに囚われたり縛られたりすることもない。大切なのは現在なのだ。クギだって、現在どの柱を支えているかということが大切なのであって、過去そのクギの一部が鉄橋であった、レ-ルであった、ということは問題ではない。光の世界ではすべての生命が一つに溶け合っている。生まれるということは、光の世界からやってくる。その一つの生命には、無数の過去、無数の前世が含まれている。その中の一つにこだわることはない。

 

 

「二百年前、あなたは前世で悪い事をした。そのカルマ-業-因果によって苦しまなければならない。だから病弱なのだ」というものではない。前世で悪いこともしたかもしれないが、いいこともしたはずだし、前世に悪い人生もあったかもしれないが、いい人生もあったはずだ。一つにこだわることはない。一つの生命には無数の過去の人生や記憶が含まれている。あなたの中には、キリストもブッダもモ-ツァルトもピカソもいる。あなたの過去は、多くの天才や偉人、素晴らしい人の生命の記憶も含んでいる。その中のどれに注目しどれを意識するかで人生が変わる。自分にとって素晴らしい過去=前世を見つければいいのだ。

「看護婦さんになりたい。私の中のナイチンゲ-ルがよみがえったのだ。」「絵が好きだ。私の中のミケランジェロが活動を始めたのだ。」そう、あなたの中にはナイチンゲ-ルもミケランジェロもいる。あなたは素晴らしい可能性を秘めた人なのだ。あなたには無限の可能性がある。もし過去=前世があるとすれば、それは囚われたり呪われるためではなく 無限の可能性と大きなパワーを与えるためのものである。どこを意識し、どの可能性を大きく伸ばすかはそれはあなたの選択なのだ。誰にだって無限の可能性がある。特定の過去に囚われる必要はない。そもそも、一つの過去前世に囚われた恵まれない人生などない。それに気づけば今からでも人生は変えられる。

つまり過去は変えることが出来、それによって現在を変えることが出来、未来を変えることも出来るのだ。過去は選択可能なものなのである。あなたには、無限の可能性があり、それはあなた自身の選択なのである。熱帯魚の群れは、何故一瞬にして数百匹が同時に方向転換するのだろう。一匹のリ-ダ-が先導しているのではないそうだ。それなのに、群全体が一つになって動いているのは何故だろう。また、サンゴは数百万数千万のサンゴ虫なのに何故一斉に変色したり死んだりするのだろう。どうして竹林は数百年に一回、一斉に枯れるのだろう。チョウや蛾には、羽根にコブラやフクロウの顔そっくりの模様をもつものがいる。それは、自分の天敵であるコブラやフクロウの姿を真似ることによって、自分を守るためである。これを擬態というが、しかし一体どのようにしてそれを描くことが出来たのだろうか。

枯葉チョウは枯葉そっくりである。ナナフシは木の枝そっくりである。もっと凄いものに、死んで朽ち果てた姿のバッタがいる。羽根や身体は朽ち果て変色している。どのようにして自分の死体を真似ることが出来たのだろう。さらに凄いのは、ワニそっくりの顔をもつ虫『ユカタンビワハゴロモ』だ。この虫の頭部はワニそっくりで、ワニそっくりの目、ワニそっくりの巨大なキバの模様まである。自分の100倍以上の大きさのワニを真似てしまったのだ。しかしこの虫が生存しているということは、この擬態は成功しているのかもしれない。擬態は、はるかに離れた場所にいる敵から見て自分がどのように見えているかがわからなければならない。虫たちは、どうしてそれが出来るのだろうか。虫たちはどのようにして自分をそのような形と色に出来たのだろうか。

アリはすべて勤勉とは限らない。よく観察すると、数%のアリたちはいつもふらふらと遊んでいる。「アリもサボるのか」と安心するかもしれないが、実はこのアリ、仲間たちの次の仕事を探しているのだそうだ。面白いことに、この数%という比率は変わらないそうだ。実験でこの比率を変えても、しばらくするともとの比率に戻るそうだ。この比率は、一体誰が決めて誰がコントロ-ルしているのだろうか。花はいつ現れたのか。 チョウはいつ現れたのだろうか。もし、花が先に現れたとしたら、花粉は運ばれずに滅びただろう。もし、チョウが先に現れたとしたら、チョウは餓死し滅びただろう。何故、花とチョウは同時に現れることが出来たのだろうか。現在の科学では、これらに十分な説明が出来ない。多くの場合、偶然とか突然変異というしかないが、それで説明出来るだろうか。

自然界の様々な驚異は、偶然や突然変異で説明できるものではない。「獲得形質は遺伝しない」という遺伝学の常識からは、生物の進化さえ説明がむつかしい。『生命はすべてつながっている』このことで、自然の驚異はすべて説明出来る。自然界はつながっているからこそ、熱帯魚の群れも、鳥の群れも一斉に方向転換できるし、花とチョウも同時に現れることができる。そして、虫たちは信じられないような擬態が可能なのだ。ライオンはカモシカを殺しすぎず、カモシカも草を食べ過ぎず、自然界は調和し永続出来ているのだ。すべてはつながっているのだ。このことが分かればすべてが分かる。光の世界では生命はすべて一つにつながっている。しかし、生きているときも生命はすべて一つにつながっていたのだ。固体や生物種を超えて、全てがつながっているのだ。そしてそれらはつながって一つになっているのだ。

何と素晴らしいことだろう。生命は一つ、生命はすべてつながっているのだ。生命はワンネス、自然はワンネスなんだ。。。。。。。。。

 

 

遠くで誰かが呼んでいる。。。「高木さん!高木さん!聞こえますか?わかりますか?高木さん、高木さん!」・・・・・目の前で光が動く。「高木さん、高木さん!これ見えますか?光が見えますか?」”光?光・光は・・・たくさん見た。”全身激痛。どうしたんだろう。身体が動かない。頭も動かない。目だけで周りを見回す。病室に一人寝かされている自分。全身固定。酸素マスク。口、鼻にパイプ。点滴の管。心電図のオシロスコ-プ。この景色は覚えがある・・・・遠い過去に見たことがある・・・・遠い過去の記憶が蘇ってくる。目の前にクルマ、自分の身体が宙に舞い国道に叩きつけられる・・・・・そうだ!僕は交通事故に遭ったんだ。思い出した・・・・全身骨折で重体。骨盤が、首が、足が、そしてこの手が。。首が動かないため横目で手を見る。大きなギブスが、肩から手首までを覆っている。身悶えするような手首の激痛に呻き声をあげる。

「ピ ア ノ ・・・弾 け ま す か ?・・・・」これが私の第一声だった。「えっ?ピアノ?手は粉砕骨折ですから、ピアノは無理でしょう。」”やっぱり。。あの時見た通りだ。最も恐れていたことだった。”「 指 揮 台 に・・あ が れ ま す か ?・・」これが私の第二声だった。「えっ?指揮台? 骨盤骨折と動脈切断ですから無理でしょう。」゛やっぱり。。あの時見た通りだ。恐れていたことだった。゛事故の様子を聞かされた。私はオ-トバイで国道を直進中、対向車線から突っ込んできたクルマにはねられたのだ。運転していたのは19歳の少年で、Uタ-ン禁止の交差点にUタ-ンしようと突っ込んできたのだ。前方不注意で私をはねたのだった。正面衝突、意識不明の重体。頚骨損傷。骨盤骨折。右股間脱臼。右膝関節骨折。左手首粉砕。左肩関節剥離骨折など骨折多数。擦過傷多数・・・・・・・。運びこまれた救急病院では手の打ちようがなく、大学病院に転送されたのだ。すべて、あの時、私が見たままだった・・・・

手術の様子を聞かされた。骨盤が砕け、右大腿骨が骨盤からはずれて、骨動脈四本すべてが切断。骨盤はボルトで結合したが、動脈の縫合は出来なかった。動脈は自然治癒に期待するしかないが、その可能性は一本につき50%。動脈が一本つながる可能性は、50% ・・・その場合は骨は半年で壊死するという。壊死すれば足を切断するか、人工骨頭か・・・義足で歩ける可能性もあるという。動脈が二本つながる可能性は25% ・・・その場合は骨は一年で壊死。動脈が三本つながる可能性は12%。その場合も骨は二年で壊死。動脈が四本全てつながる可能性は6% ・・その場合にだけ、自分の足で歩ける可能性があるのだ。実に、6%の可能性。

骨盤と大腿骨の癒着を防ぐため、足を重りで牽引するのだが、そのために、すねの骨にドリルで穴をあけて鉄棒を通し、鉄棒にロ-プを結んで10キロの重がベッドの滑車からぶら下げられている。自分の足から鉄棒が突き出ているのを見るのは何ともいえない気持ちだ。何とまあ凄いことをするものだ。ベッドが揺れたり、重りが揺れたりするとすねの骨に直接ひびく。ピアノを弾くために何よりも大切にしてきた左手は、粉砕骨折で手首が180度ねじれて、手の甲が手首に折り返されていたそうだ。あまりひどくて切開できず、手術はⅩ線を照射しながら釘で骨を串刺しにしてつなぎ止めるマニュピュレ-タ法。大きなギブスに包まれた手首には、釘が何本も突き刺さっている。これらの手術も、あの時、天井から見た通りだった。集中治療室のギブスベッドで、全身固定・絶対安静。

酸素マスク、点滴、手術部分から血液を放出するためのドレインパイプ。排尿のためのパイプ。心拍数をモニタ-するオシロスコ-プ。この光景もあの時見た通り。首が動かないので、目けでこれらの様子を眺め、次第にこれが夢でないこと、現実であることを理解した。栄養は点滴だけで食事はなし。衝撃でヘルメットが脱落、顔面に負傷。しかし幸い頭部には外傷はない。身体や足には多数傷がある。足や膝にはえぐれて深い傷がある。主治医によると「いつまた意識不明になるかわからない。ひどい後遺症になるかもしれない。社会復帰は無理でしょう。」゛なぜこんなことに。何も悪いことなんかしていないのに。どうして・・何かの間違いなんだ・・これは夢なんだ・・・・もうじき目が覚める。もう少しの我慢なのだ。゛しかし、激痛と高熱がいやでもこれが夢でないことを教えてくれる。

拷問のような痛みと、無期懲役のような生活。何の見込みも希望もない。気が狂いそう。時間のたつことだけが願い。眠ることだけが救い。眠ることだけが、痛みと絶望的な現実を忘れさせてくれる。あれは何だったのだろう。事故現場を見ていた自分。手術を見ていた自分。故郷に帰った自分。宇宙から地球を眺めて感動したこと。そして光の中に。無数のフラッシュ。十年後、ソビエトが崩壊、それから数十年後アメリカが崩壊。さらに数十年後、世界が崩壊。その他、膨大な未来の記憶。すべて有り得ないことばかり。おかしなことを言って、これ以上家族を心配させてはならない。あれは悪夢なんだ。忘れるんだ。。。。

 

 

一ヶ月が過ぎた。痛みが和らぎ、生活にも慣れてきた。面会が許され、たくさんの人が見舞いに来てくれるようになった。昼間は人と話すことによって気が紛れる。「生きててよかったですね。」「よくなってください。」「また指揮してください。またピアノ弾いてくださいね。」「また職場に復帰してください。」「頑張ってくださいね。」ありがとう。みんな、ありがとう・・・昼間はたくさんの優しさに出会える。元気が出て、気が紛れて希望も出て来る。もしかすると本当に治るかもしれない。もしかするとまた指揮が出来るようになるかもしれない。しかし、夜は現実と向き合う。いつ意識不明になるか、いつ後遺症が出るかわからない。明日はどうだろう。一ヶ月もちこたえられるだろうか。これではまるで死刑囚だ。神経がまいってしまう。いっそ早く死んでしまいたい。家族は「お父さん、生きててよかった。」と言ってくれる。

でも、本当にそうだろうか。一生寝たきりだと家族に大きな負担をかける。死んだなら、1~2年は悲しむだろうが、やがて忘れるだろう。妻は再婚できるし、子供には新しいお父さんができる。「前のお父さんは音楽が得意だったけれど、今度のお父さんはスポ-ツが得意。」夫とお父さんは新しいほどいいんだ。自分なんていない方がいいんだ。それにしても、あの記憶は何なんだろう。頭がおかしくなったんだろうか。何度も確かめた。記憶はしっかりしている。何の異常も認められない。ではあれは何だったのだろう。忘れなければという思いと、確かめなければという思いに揺れる。自分が自分から抜け出して、自分を眺め故郷をさまよい、そして死後の世界へ行って生還したなんて。。。有り得ないことだ。

しかし、何かが変わったような気がしてならない。自分の中にもう一人、誰かがいるような感覚があるのだ。そして、無数の未来の記憶。これは何を意味するのだろう。自分はもとの自分なのか、それとも別人として生き返ったのか。自分に未来の記憶がインプットされたのか。それとも、未来から来た別人に自分の記憶がインプットされたのか。だめだ。こんな事を考えてはいけない。あれほどの衝撃を受けたのだから、少しくらい異常があって当然なんだ。考えないようにしよう。忘れなければいけない。お見舞いに来た合唱団の人から、Sさんのことを聞いた。Sさんはあの日会社に行くとき、交通事故にでくわした。足元にヘルメットが転がってきた。振り返ると、オ-トバイが倒れて人が倒れていた。

たくさんの人がいたので大丈夫だと思ってそのまま通り過ぎた。翌日、Sさんは私が事故に遭ったこと、容体は絶望的だということを聞いた。よく聞くと、まさにあの事故がそれだということがわかった。自分がそこにいたのに、そして私のヘルメットが自分のほうに転がってきたのに、自分はそれが私だということを気がつかず、何もしないで通り過ぎたことに大きなショックを受けていたそうだ。私の容体が安定していると知って、最近になってそのことを周りの人に打ち明けたそうだ。私もこの話を聞いてショックを受けた。あれは本当だったんだ。私の見たままだった。どういうことだろう。

自分が自分の身体から抜け出して、自分を外から眺めていたことになる。自分が自分の肉体から離れるなんて、どういうこと??そんな事有り得ないけど、しかし、交通事故の後のあの体験。ふるさとへ~宇宙へ~光の世界へ行ったあの体験。あの記憶は、それ以外にどう説明すればいいのだろうか。今でこそ、臨死体験とか幽体離脱という言葉や体験は、よく知られるようになったが当時、そんなことは一般的ではなかったし、私も知らなかった。

 

 

会社に復帰したときはみんな親切だった。「大変でしたね。後遺症はありませんか?無理しないでね。」以前私は、プロジェクトリーダーで、自分で研究テ-マをもち何名かの部下をもっていた。復帰した時、以前の私のプロジェクトは進んでいたので一年のブランクを埋めるため部下に聞いて勉強した。みんなよくやっていた。そう、一年前まで自分もそうだった。そして自分の部下で最も優秀だった若手研究員は、実質的にはプロジェクトリーダーとして立派にやっていた。しかし、自分には仕事がないのだ。はじめは上司が気づかってくれているのだと思っていた。何度か「そろそろ復帰したいのですが。」と言うと「まあ、もう少しゆっくりしてなさい。」と言われる。会議や打ち合わせに出ようとすると 「出席しないでいい。」と言われる。「何をすればいいですか?」と聞くと、「まあ次の仕事でも考えてくれ。」と言われる。

そこで、図書室で論文を読んだり、特許を調べたり、専門書を読んだりして次の研究テ-マの調査を始めた。次期研究テ-マについて計画書も出した。しかし、手応えがない。計画書は、何日も机の上に置かれたままであったり、いつかゴミ箱に捨てられているのを見て、やっと自分の置かれた立場が分かったのだ。私は「窓際」になってしまったのだ。「窓ぎわ」は、「いじめ」よりひどい。「無視」なのだ。無視というのは仕事がないのだ。自分はいないのと同じなのだ。透明なのだ。これは凄いことなのだが、体験しないと分からないだろう。毎日が地獄なのだ。何もすることがないのだ。自分はいないのと同じなのだ。日ごろ忙しい人は「何もすることがないなんてなんて羨ましい。」と言うかもしれないが、無期限に何もすることがないというのは、想像以上の地獄なのだ。

初めはみんな「大変でしたね、いかがですか?」「後遺症はありませんか?」と声をかけてくれる。その度に「いえ、おかげさまで何ともありません。」と答えると、不思議なことにあまり喜んでくれない。むしろ「そんなことはないでしょう。多少はあるでしょう。雨の日などは痛みませんか? 」という反応が返ってくる。毎日、どうやって時間をつぶすかが問題なのだ。時間をつぶすものがないというのは何とも言えないほど苦しい。朝、まず職場の回覧板などの書類に目を通す。新聞にも目を通す。できるだけゆっくり。そして時計を見る。「せめて30分」。。しかし15分しかたっていない。次にコ-ヒ-を飲みながら仲間と雑談する。出来るだけゆっくり。その間も自分のいる場所がないこと、自分の存在が仲間にとって迷惑というか気を遣うことなのだということがひしひし感じられる。

そのうち仲間は「お、もうこんな時間か。会議が始まる。」「そろそろ仕事を始めなきゃ」と立ち去り、一人取り残される。たまらない気分。次に図書室に行く。何度も目を通した専門書、新刊図書にまた目を通す。出来るだけゆっくり。そして時計を見る。「せめて1時間」。。しかし30分しかたっていない。次に休憩コ-ナ-でコ-ヒ-を飲む。知人がいると近況や世間話、仕事の話をする。そのうち「あ、会議に遅れる」「おっと忘れてた」とあわてて立ち去り、一人取り残される。たまらない気分。「せめて30分」。。しかし15分。一日に100回以上も時計を見る生活。地獄のような毎日。夕方になると疲れ果てて家に帰る。職場復帰して2~3ヶ月たっても毎日夕方に帰宅する。

私に妻が「いつも早いですね」と言う。「職場が順調だから」と言葉を濁す。またある時妻に「元気がないみたい。復帰って難しいんですって?大丈夫?」と聞かれた。「大丈夫に決まってるじゃないか」と機嫌を悪くする。心配させたくないという気持ちと、認めてしまうと二度とこの地獄から逃れられないと思うからだ。もっと帰宅を遅くしなければ、と図書室で寝てから帰ったり、ほかほか弁当を買って公園で時間をつぶしたりして遅く帰る努力をした。会社や公園で居眠りをすると夜眠れない。眠れないと余計にいろんなことを考えてしまう。毎日が苦しくて「いっそ死んでしまおう」と何度考えたことだろう。「このままでは自分が駄目になる」ベッドの上で気づいたことは何だったのだろう。

みんなに役立つ、みんなに喜んでもらうとはどういうことなのだろう。たしかに自分が変われば家庭が変わった。指揮者が変われば合唱団が変わった。オ-ケストラが変わった。しかし「窓ぎわ」の自分は一体どうすればいいのだろう。いくら自分が変わろうとしても、いないも同然の自分に何ができるだろう。これに耐えなくてはならないのだろうか。このまま「窓ぎわ」としてみんなに役立てばいいのだろうか。それとも会社を辞めて新しい人生を歩む方がいいのだろうか。しかし、家族はどうなるだろう。生活はどうすればいいのだろう。一年の入院で、貯金はほとんど無くなってしまった。何よりも「窓ぎわ」のままでは生ゴミのままでは地球環境であれ何であれ、社会に影響を与えることが出来ない。それが一番困る。ああ、一体どうなるのだろう。最大のピンチ。ここをクリア出来ないかぎり、自分に未来はない。苦しい毎日だった。来る日も来る日も死ぬか生きるか、ぎりぎりのことを考えていた。

 

 

ある時、ふと気付いた。『仕事は与えられるものではない。したいことをすればいいんだ。自分を苦しめているのも自分。自分を窓ぎわ、生ゴミにしているのも自分。自分が苦しむのをやめ、自分を認め、自分がしたいことをすればいいんだ。』よし、したいことをしよう。研究所では自主プロジェクトというものがある。10%程度の時間で、自主的に研究ができる。もちろんある程度の手続きが必要なのだが。私は、研究所のカテゴリ-と、自分のやりたいこととの可能性の中から、ピアノに関わる自主プロジェクトを始めることを決意した。コンピューター技術を応用した電子ピアノの開発。当時の電子ピアノは音質はまるでオモチャ。鍵盤タッチは電子オルガンと同じで 多少ともピアノが弾ける人にはとても弾く気にならないものだった。

そこで何とか本物の音、本物の鍵盤タッチを出そうと試みた。原理を簡単に述べると、本物のピアノ、特にシュタインウェイやベ-ゼンドルファ-などの世界の名器の生の音を半導体メモリ-に記憶させ、鍵盤のタッチによって再生するのだ。ピアノの音は鍵盤タッチやペダルによって様々に変わるので、実際に様々の音を録音し、タッチやペダルに合わせて再生できるようにし、鍵盤は実際のピア鍵盤を使い、本物のタッチ感が得られるようにした。一年がかりで完成させた試作品はかつてない電子ピアノだった。一年後、それは当社の画期的な新製品になった。この製品は高価だったが世界の名器のピアノだけでなく、チェンバロ・ハ-プ・ギタ-などの音が出ること、自動演奏可能、録音再生可能、ヘッドホン可能、軽量など多くのメリットがあり、のちに100億円事業となった。

一度窓ぎわになった人間が、一つの成功でメデタシというほど会社は甘くない。一本ヒットを打ったところでそれで運命が変わるわけではない。もちろんこれで細々と研究を続けることは出来る。しかし、それは自分として満足な生き方ではない。将来も見えない。このままではだめだと思い悩んでいた。そんな時、幸運が舞い込んできた。特別プロジェクトのサブリ-ダに任命されたのだ。特別プロジェクトというのは、会社の戦略上、非常に重要なプロジェクトのことで、会社から優秀なメンバ-を集めて優先的に推進されるものである。全社から集まった12名の優秀な技術者集団で、技術的にも日程的にも非常に困難なものだった。開発目標は業務用パソコンで100万個のエレメントの一つにミスがあればそれで失敗なのだ。一人一人が高い技術レベルの仕事をするだけでは不足で、チ-ムとしての協力ができなければシステム開発は失敗する。つまり演奏者一人一人がいい演奏をするだけでは音楽にならないのと同じ。

その頃、私は指揮者としてオ-ケストラと合唱団の一人一人が、最高の演奏をするとともに、全体として最高の音楽を実現することに取り組んでいた。この『オ-ケストラ指揮法』が仕事でも大いに役立った。技術的にも日程的にも困難な目標であったが、非常にいいチ-ムワ-クで開発が進み、目標より早く完成しこの特別プロジェクトは成功した。この成果で社長賞を受賞、さらに共同開発の相手会社からも社長賞を受賞した。このことによって私は、窓際から復帰することが出来たのだった。今思い返しても、この時期は最も危険な時期だったと思う。あらためて周りを見ると、職場には結核で長期に休んだり神経症などで昇進からはずれた人が何人もいる。みんな世間でいう名門大学卒だが、社内の激しい競争に敗れたと見なされている。私のように交通事故で一年休職した者もまず復帰は難しい。本当に幸運だったと思う。

先日、こんな悲しい事件を知った。「クルマの中で夫婦が餓死。夫は元エリ-トサラリーマン、妻はピアノ教師。夫が事故に遭い、後遺症のため会社を辞め、生活に困りマンションを出てマイカ-の中で生活をしていたが、餓死しているのが発見された。」これを知ったときショックを受けた。とても他人ごとでないような気がした。この夫婦がマンションを出るとき、最後に弾いたのが、ベ-ト-ベンの「月光」だったそうだ。この曲は私にとっても忘れがたい曲だった。私の人生を大きく音楽のほうに動かした記念の曲だった。私はこの悲しい事件に自分のもう一つの人生、もう一つの未来を見た思いがした。まさにこれは、私が何度も迷って「選ばなかった方の人生」だったのだ。『天は自ら助くる者を助く』神はみんなを助けるのではなく、努力する者だけを助けるという諺。その通りだと思う。自分を生かすも殺すも自分なのだ。悩みは自分で作り出しているのだ。

どうしようもない穴の中に自分を閉じ込めているのは自分なのだ。実際に私は窓ぎわだった。しかし、それでもなお、諦めるのかどうかは自分が決めるのだ。最後の最後まで、努力を続けることにより、願いが実現する。「仕方がない」と思えば仕方なくなるのだ。そして大切なのは、最後の結果ではなく「現在の生き方」なのだ。絶対、ダメとか絶対ムリというものはない。あきらめてはいけない。あきらめれば、その通りの結果になる。病気もガンも諦めてはいけない。希望を持つことだ。しかし、諦めてはいけないが、戦ってもいけない。戦いは戦争であり双方傷つく。仮に勝ったとしてもまた反撃されるだろう。戦うのではなく、努力すること。現実を受け入れ「気づかせてくれてありがとう」と感謝した上で、希望に向けて努力すること。このことが最善の結果を実現するのだ。

私が常任指揮者を努めていたのは、日本一を目標に作られた職場合唱団だった。創立以来、毎年コンク-ルに出場。最初の年6位、翌年5位、翌年4位、翌年3位、翌年2位と順調にランクを上げたが、そのあと頭打ちで、どうしてもトップが取れなかった。なぜ勝てないのか。なぜ、私の言うとおり歌わないのか。どうすればいいのか。苦しい時期が続いた。そのさなかでの交通事故だった。退院後、私の音楽観、指揮観が大きく変わった。命令・説得・説明・強力な指導をやめた。合唱団は、指揮者の道具ではない。コンク-ルに勝つことが目的ではない。音楽はみんなが楽しむためのものである。一人一人が力を発揮し、最高の音楽を実現することこそ、指揮者の仕事なのだ。まず相手を信頼し任せること。人は信頼されると信頼に応えようとする。「ここはどう思いますか?任せますから最高の音楽を聞かせてください。」そしてどんな意見にも耳を傾けること。意見を尊重すること。メンバ-の戸惑いが消えた時、合唱団は大きく変わった。

一人一人が自分の考えを持ち、自分の意見を述べ、自分の音楽を表現するようになった。みんなの表情や姿勢が変わった。アマチュアからプロに変わったのだ。合唱団全体が生き生きとし、自分が音楽を作るのだという自信を持つようになった。音楽は劇的に変わった。表情豊かになった。そして迫力、凄みが出てきた。練習は見違えるように変わった。笑い声の絶えない和気あいあいとしたものに変わった。指揮者とメンバ-とピアニストが一つになった。以前は「コンク-ルに勝つこと」が重大なことだったが「コンク-ルは素敵な演奏会」と思うようになった。そして翌年、コンク-ルで初めて一位をとった。みんな大いに感激した。ちょうど合唱団設立10年目だった。私自身の感激がひとしおだった。涙が止まらなかった。生まれ変わった自分の門出だった。それ以来、ほぼ毎年優勝するようになった。

 

 

幸せならばみんな力を発揮する。どうしてこんな簡単なことが分からなかったのだろう。私は以前「勝つためには苦しい練習をするのが当たり前。364日苦しんでも最後の一日で笑えばいいじゃないか」と言っていた。そして笑えなかった。ところが今は「練習は楽しくなきゃあ、364日楽しんで、最後の一日ぐらいどっちでもいいじゃないか」と言うようになった。そして実際には楽しい練習のほうが はるかにいい音楽ができ、結果として年中楽しんでいるのだ。みんなは、それぞれ自分の音楽を持っている。それぞれが最高のものを発揮しようとするのを邪魔していたのは自分だったのだ。指揮者が、あらかじめ決めた演奏をさせようなんてなんて愚かなこと。指揮者の理想の音楽は、目標ではなく出発点に過ぎないのだ。それぞれが自由に演奏することで、そしてお互いに聴き合うことで、最高の音楽を演奏することができる。

寝たきりのベッドでこのことに気づいた時、悲しくて悔しくて恥ずかしくて何度か泣いた。私はワンマンだった。何人かの人の心を傷つけたことがあるからだ。そして本当の指揮者として目覚めたとき、二度と指揮台に上がれないと医者から宣告を受けたからだ。幸運にも自分は今、指揮者としてカムバックできた。コンク-ルに勝つための音楽ではなく、喜びの音楽を、幸せの音楽を自由な指揮棒を振ることができるのだ。指揮者を邪魔しないのが優秀な合唱団なのではなくて、合唱団を邪魔しないのが優秀な指揮者なのだ。これで社会復帰ができたので、地球環境について研究をスタ-トした。学会や研究会に参加、シンポジウム、委員会に出席した。国際会議などにも出席、情報やデ-タを収集した。オゾン層破壊、地球温暖化、森林破壊など環境破壊の極めて深刻な実態が国連や政府などの公表デ-タとしてはっきり示されている。そしてそのどれ一つをとっても、世界の破局がはっきり示されているのだ。そしてこの世界の将来は、人口爆発と貧困、食料不足、水不足、資源の枯渇、環境汚染と環境破壊、世界経済の崩壊、地球規模の生態系の崩壊。

未来の記憶どおりだった。デ-タは揃った。地球環境の各項目について国連や各国の公式デ-タ、誰にでも分かるデ-タ、ショッキングなデ-タが揃った。1991年、ソビエトは突然崩壊した。ゴルバチョフ大統領の急ぎすぎた民主化による軍や政治の混乱と経済崩壊によって。ちょうど事故から10年目だった。東西の力の対決、力のバランスで保たれていた世界秩序は崩れ始める。これから東西ドイツ、南北朝鮮、二つの中国の問題、アフリカ、東南アジアなど政治やイデオロギ-で分けられた不自然な国境は崩壊する。民族の異なる国は分裂する。ソビエト連邦はバラバラに崩壊し、アメリカ合衆国もバラバラに崩壊する。ショックだった。やはり始まったのだ。間違いではなかったのだ。急がなくてはならない。

1989年、モントリオ-ル会議で 「2000年、特定フロン全廃」を決議したが、日本だけがサインをしなかった。これだ 今がチャンスだ、と思った。社長に地球環境のことを話すことを決意した。社長とは、仕事以外でも合唱団のことでお話をする機会が何度かあった。合唱団がコンク-ルで連続一位をとっているのは、会社にとっても大きな話題であった。このことでは社長もずいぶん喜ばれ、社長金賞を二度受賞した。「非対立、非対立」と唱えながら社長室に入った。「きょうは何だね?」「地球環境のことでお話があります。」「合唱団のことではないのか。それなら担当役員に話しなさい。」「わが社にとって重要な問題です。ぜひお知らせしたいのです。」「じゃあ、聞こうか。」オゾン層破壊について話した。これが私の最初の講演だった。社長は非常にショックを受けられた。「まさか、それは本当か!」

「これは国連や各国政府などの公式デ-タです。」「なぜ日本はサインしなかったんだ?」「わかりません。でも100億円で社内のフロンは全廃出来ます。」「うちがやれば、よそが怒りよる。」もしここで「よそが怒ろうと、うちはやるべきです!」と言えば私はクビだろう。非対立で。主義主張や説得はマイナスになる。気づくチャンスを作ること。「うちがやらなければ、どうなるでしょう?」「うちがやらんと、よそもやらんだろうな。」ハ-ドルを一つ越えた。「しかし100億円はもったいないわ。」もしここで「100億円くらいなんですか!」と言えば私がクビ。 非対立で。相手の気持ちを受け止めること。「お金は使わないとオゾンは無くなります。でも、お金は使っても無くなりません。」「えっ、金は使えば無くなるやないか。」もしここで説明すれば気づくチャンスが無くなる。

私は黙っていた。黙っていると考えることが出来る。考えることを邪魔しないことだ。「なるほど、金は無くならんな。金は天下の回りものだからな。」ハ-ドルをもう一つ越えた。もう一息。「私は経営者だから、いい悪いだけでは考えられない。経営の観点で考えんといかん。君も経営の観点で考えてみてくれ。」もう一息のところで難しい問題。一瞬、どう答えればいいか分からなかった。非対立で。同じことを繰り返したり、強引に説得すれば失敗する。チャンスは一度。失敗すれば取り返しがつかない。非対立は、無理しないということも大切。「しばらく時間をください。」気がつけば一時間が経っていた。社長の時間を大きな事業の話以外で一時間取るのは異例のことだった。社長室を出て図書室に行った。経営とは何か、経営という観点で考えるとどうなるか。人にも聞いた。本も調べた。しかしピッタリくる答えは見つからなかった。そしてやっと、仏教辞典で次の説明を見つけたのだ。

 

 

経営の「経」は「真理」を表し、「営」は「一生」を表す。「経営」とは「一生をかけて真理を求める」の意。この言葉に感銘を受けた。そして再び社長室に出かけて行った。「どうした?」「経営という観点で考えてまいりました。」「話してみなさい。」そのことを説明した。「経営とはそんな凄い言葉なのか。どうすればいいんだ。」「わが社として何ができるか、社長と一生かけて考えてまいりたいと思います。」「そんなことしてたら間に合わんじゃないか。」「間に合わないと思います。」「それじゃダメじゃないか。」「社長の指示通り、経営という観点で考えました。」「・・・・」社長は無言。

しばらくして、社長は次のように言われた。「わかった。やろうじゃないか。」一ヵ月後。「日本最大手の電子企業、松下電器が特定フロンを全廃」「5年前倒し1995年までに」という新聞記事が全紙に載った。1989年7月20日のことだった。他社からクレ-ムがあった。モントリオ-ル議定書に日本がサインしていない段階で、業界最大手のわが社が単独でフロン全廃を発表するのは極めて異例、極めて迷惑なことだった。ところが、しばらくして他社も続々 同様の方針を打ち出してきたのだった。 翌1990年、日本はモントリオ-ル議定書にサインした。このことは米国の地球環境の書にも記述されている。

「日本はフロンの段階的廃止よりも、リサイクルを主張。その理由は、フロンを大量に使用する半導体企業が廃止に反対していたからである。日本最大手の電子企業松下電気が、フロンを全廃すると述べて初めて日本は、段階的廃止に合意した」ここから講演活動が始まった。最初は、規模は10人・20人くらいから、無料で交通費などの経費も自分で負担していた。当時、講演資料として作ったのが現在のブックレット『美しい地球を子供たちに』で、毎回、コピ-を20部くらい持参してカンパしてもらった。少しずつ講演が広がり、賛同する仲間が増えた。当初は「会費なし、会則なし」であった。講演回数も増え、講演規模も大きくなっていった。仕事、音楽=指揮との両立を続けていたが、次第に難しくなってきた。悩んだ末に自分の天職だと思っていた「音楽=指揮」をやめることにした。

最後のコンサ-トのアンコ-ルの時、あいさつをした。「このコンサ-トを最後に私、音楽活動を終わります。」みんなの反応は、冗談でしょうといった感じだった。「これからは地球環境の保全活動に全力で取り組みます。いつかどこかでお会いできるかもしれません。もし地球が大丈夫になれば、カムバックし、ベ-ト-ベンの『歓喜の歌』 を、もし地球がダメになれば、最後にチャイコフスキ-の『悲愴』ベ-ト-ベンの『運命』を演奏させていただきたいと思います。」みんな真剣になり、アンコ-ルのシベリウス作曲「フィンランディア」は、演奏者もお客様も私も涙の演奏だった。

やがて、環境を取るか、会社を取るかの選択を迫られた。音楽をやめるときほど迷わなかった。「私は、子供たちに地球を残そうと思います。長い間お世話になりました。」それでも空になった机や書棚を眺めたとき、「遂に会社を辞めるんだな」という感慨があった。以前「自分が会社を辞めるとしたら 音楽活動に専念するためだろう」と考えたことはあったが、まさか、こんな形で会社を辞めるとは夢にも思わなかった。「明日から自分のしたい事だけをやればいいんだ。」という解放感と同時に不安もあった。「ほんとにこれでいいんだろうか」「音楽を止め、会社を辞め、次は一体何をやめるんだろうか」

生きることをやめる、いつかそれも避けられないだろう。あの記憶。自分の寿命を考えると、もうあまり時間が残っていない。いずれにせよ、もう後には戻れない。間に合うかどうかわからないが、最善を尽くしたい。『美しい地球を子供たちに』

 

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