ALWAYS 三丁目の夕日

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冒頭で「タッチ」「春の雪」テリー伊藤が主役らしい「あおげば尊し」「力道山」と次々に日本映画の予告編が流れる。

予告篇でこれだけ面白くなさそうだとなあ(笑)

という悪い予感が、実はこのあと的中してしまうのだが・・

Nipponn Television Network Corporation という文字で、うん?(笑)

それはさておき、映画は当時のラジオ局をザッピングしながらラジオへズームインするというシーンで始まる。

このオープニングは、確かジョディー・フォスターの「コンタクト」で使われていたが、それだけに少しの期待が入り混じることになったわけだが・・

この「ALWAYS 三丁目の夕日」の予告だけを収めたDVD一枚を、以前に間違ってレンタルした事があったので、実を言えばこの映画については、かなり期待をしていた。

カメラ目線は母親らしき「薬師丸ひろ子」からカメラは引き戸の外へズームアウト。

これはハリウッド映画でよく使われる、シームレスなズームインと逆の手法だ。

カメラ目線が引き戸の隙間からズームアウトして家の外へ出る際に「継ぎ目が」気になってしまったが、それには気がつかないことにした。 (笑)

alwaysB.jpg


引き戸の隙間からズームアウトして家の外へ出る際には音声も、屋外の雑音にスイッチして、やがて冒頭で3人の子供が登場して家の中へ。

「かあちゃん・・今日テレビ来る?」という子供の問いかけに、薬師丸演じる母親が「まだこないって・・何度いったらわかるの・・」と続くセリフの「間」のとり方のまずさ。

冒頭から「芝居のヘタさが露呈してしまう」という展開に少し愕然とする。

台詞そのものに工夫がないことに加え、役者として演じるそのタイミングの悪さが原因だろう。

 

で3人の子供たちは、今日はテレビがしばらくこないことがわかると、ゴム飛行機を飛ばしに外へ出るのだが・・

ここで母親は「父ちゃんが帰ってくるまでに戻るのよ」と自分の子供に言うのだが、そこでそこの家の子供らしき「子役」は、母親に「アカンベー」をしながら後ずさりする。

この当時の今より純粋だったはずの子供が、母親のごく普通のこうしたセリフに対して「アカンベー」をするものだろうか?

 

後ずさりをしているため、この後のシーンで、この映画の主役を演じる子供と、後ずさりをしている男の子が「ぶつかる」のだが、これも見ていて不自然極まりない。

この時点で、この映画がこのレベルでのリアリティーで続くことが、うっすらとわかってしまうことになる。

でこのあと、仲間の2二人の子供が、戻ってきて、後ずさりをしている男の子と、その子が「ぶつかった」子供の4人が話すシーンとなる。

 

ここでの登場の仕方を含め、カメラワークが固定のままのためということもあって、いかにも「ここで画面へ二人の子供さんは小走りで登場してください」といった演出がされているだろうことを、想像してしまう。

私が監督なら、このシーンにはOKを出さないだろう。

このあとで次々と展開するかなり良くできている「懐かしき昭和60年代」の再現、言い換えると「ある程度時代考証され、日本映画としてはよく当時が再現されている」というこの映画の唯一のウリとなる「魅力」も、映画全編に流れる「リアリティーのなさ」で、大幅にトーンダウンしてしまっている。


リアリティーとは何だろう?

第一に「写実性の高さ」だ。

映画ではセリフそのものが、そのシーンで自然なのかどうか、という「写実性」が、かなり大きな要素となるわけだ。

日本の映画は総じて「セリフの練りこみ」あるいは「適切かどうかをプロが検証する」というプロセスがあまりにも、おざなりになっている。


映画では「嘘をつく」レベルが一定していることも、見るものを「映画の世界に誘い込み、徐々に虜にしてしまう」ためには欠かせない要素となる。

この映画は、このあとで「スズキオート」という自動車修理の町工場のオヤジを演じる「堤真一」がオーバーアクトして、いきなり「まるでカンフー映画でギャグ的に大暴れしてドアをぶっ飛ばす」という仰天シーンが登場する。

冒頭から続いているリアリティーのレベルが、突然「お笑い映画」あるいはコミック漫画のように突然豹変する意図というのは、一体どこにあるのだろう?

製作側にぜひとも聞いてみたい点だ。

 

犬や猫が登場する子供向けの映画では、動物が人のように喋る。

だが、もちろん現実にはありえないことで、実際にウチの猫がいきなり喋ったら、カミサンや娘は腰を抜かすだろう。(笑)

だがこれは映画の上で製作側と観客側が無言で暗黙のうちに了解していることだ。

で、犬が「俺はなあ・・ワン」と言ったからといって、「リアリティーがない」ということにはならない。

だがその犬が、ネズミに殴られて気を失うというような展開になれば「嘘をつく」レベルが違う領域になるため、リアリティーが失われてしまうことになる。


最後に最も大事なリアリティーは、作者であるこの映画の監督にとってそのテーマがどれだけ切実か?と言う点ではないだろうか。

つまり監督の心がその物語に感動しないまま、仕事としてシーンを撮るだけに終始すれば、観る者にはそれが伝わるため、観客の心を揺さぶることはできない。

そのため、監督には感受性、感情の動きの読み、それをどう表現するのかというこだわりが求められる。

 

優れた作品を観ると、そうした要素が過不足なくバランスよく配置され、高いレベルで実現されていることがわかるだろう。

映画を製作する側は、観客の心の動きの多様性に注意を払うという感受性に対して敏感でなければならない。

しかもそれぞれのシーンが観る側にどう映るのかについて、第三者の目で自らを厳しくチェックできていなければならない。

そうでければ「心を打つ」映画を作ることなどはできない。


こうした点から見ると、この映画は3点とも非常に低いレベルだ。

はっきり書くなら「30年代グッズ」を並べ立てただけの舞台で、まるで学芸会をやっているようにしか見えない。

カミサンさんも10分ほどで面白くないと断定し、私も珍しく途中で観るのをやめてしまったほど。

だが、ネットでは「感動した、涙した」というコメントのオンパレードなのだ。

一体どうなっているのだろう・・


途中で大逆転があるのかと、結局はあとでもう一度最後まで見たのだが「昔はすべてよかった的発想」をベースにした、わざとらしい演技とお寒いギャグ、うんざりする昭和のオンパレード・・

スートーリー展開は、小編をオムニバス形式で繋いでいるが、それぞれの演技がこうしたレベルのうえ、まるで「水戸黄門」でも見ているかのような「お約束」の展開で、意外性は一切なし。

いわば予定調和にのって「結論」をただ並べただけで終始してしまっている。


主役らしい「寅さん」映画で子役だった「吉岡秀隆」の「笑いを狙った過剰な演出」は観るものを「うんざり」させるだけだ。

小雪が一杯飲み屋のオカミ役で出演しているが、そこでのシークエンスも嘘臭く、三浦友和が演じる「宅間」という医者が酔って寝込んでしまい、警官に起こされるシーンでは、酔っぱらって土産のヤキトリを食い散らかしたのかと、思ってしまった。(笑)

いやはやである。

エンディングは、みんながそれぞれの立場と場所で、CGで作成された遠景の完成したばかりらしい東京タワーを背景にした美しい夕日を眺めるという、文字通り「綺麗ごと」でジエンド。


原作は、ビックコミックオリジナルで30年以上も連載している漫画らしい。

漫画を読んだわけではないので断言はできないが、それならいっそのことアニメで作ったほうが、遥かに原作のよさが生かせたのではないだろうか?

最新のVFX技術と広大なロケセットで当時の町並みを再現し、懐かしい観客の記憶にもたれかかっただけの「お金のかかった学芸会」で涙することができる観客は、ある意味で幸せだと思う。

できるだけその映画のよさを見ようとしているにもかかわらず、ここまで不平不満を並べることになってしまうという「予期せぬ自分の不幸」を嘆くことになるなんて、誰が想像できただろうか?

何ともなエンディングで申し訳ない。

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