逆境といかに闘うのか

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2007年は団塊世代の多くの方が、定年で退職し始める年でもあったわけです。

電通の調査によると団塊世代の7割以上が「働き続けたい」と考えているといいます。

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2007年に団塊世代の中でも最初に定年の60歳を迎える既婚男性など416人を対象とした調査によると、77%が定年後も組織で働くことを選択し、そのうちの75%が現在勤務している会社で働き続けることを 望んでいます。

働き方はフルタイムを希望する人が47%、パートやアルバイトでの勤務を望む人が40%。

また定年から65歳くらいまでの間の想定平均年収は、退職前のほぼ半分に相当する約477万円。

  

ですが平均寿命が伸びた現在では、退職後の生活を年金だけで賄うのは不十分なため、リタイア後に一定水準の収入が必要になります。

ですが大きなリスクをとらずに、個人で始められる事業として実際問題として実現可能な選択肢というのは、実はそれほど多くはないわけです。

その少ない選択肢の最右翼に位置するのが、トレーダーでしょう。

  

そのため、昨年は多くの団塊の世代の方がセミナーを受講されています。

こちらにある比較的簡単な方法だと、定年から65歳くらいまでの間の想定平均年収約477万円を稼ぐには、米国マーケットなら670万円の資金があればいいわけ です。

マンションなどのリスクの高いものを買わなければ、貯金も可能になる金額だといっていいでしょう。

  

  

こうした経済的な面と同じか、それ以上に気をつけなければならないのは、病気です。

数々の九死一生の戦いを経て中国を統一した始皇帝も晩年、病を恐れ、不老の薬を求めて日本に使者として徐福を派遣したと言われています。

命を受けた徐福は「そんな薬などあるはずがない」と大勢の童男童女を連れて日本に渡り、二度と大陸に戻らなかったといいます。

  

つまり死をも恐れないような人でも、恐れるのが病気なのです。

病気が怖いのは、それが体に苦痛を与えるだけでなく、尊厳や友情といった人の心にかかわる部分をも破壊してしまうことがあるからです。

「多病故人疎」というのは病気が多くなると、古い友人とも疎遠になるという意味ですが、これは唐時代の詩人、孟浩然が病気の淋しさを テーマに作った詩です。

 

友情とは、友に何かをすることによって生まれる情なのですが、病気で気力を失うと、どうしてもその情けが希薄になってしまいます。

友人に限らず家族であっても、「情」がないと心が痛むものです。

   

  

私の息子は自閉症という、いわゆる頭の中の病気のため、一日中同じことを繰り返し喋るため、家族が長時間彼と一緒に過ごすとノイローゼ状態になります。

正月は施設に泊めず、家族と一緒に過ごさせようという親心があっても、3日以上朝から晩まで家にずっといると、いい加減疲れてしまいます。

そのためこうした障害を持つ親は、普段どうしても施設に預けざるを得なくなるわけです。

  

本人にとっては家族と一緒にいる方が気が楽で幸せでしょうが、家族にとっては、そうした状況が永く続くと、精神的に参ってしまうわけです。

昨年の夏からは広い部屋に移ったので、以前よりはラクになりましたが、それでも大変なことには変わりはありません。

  

また息子の場合はいわゆる「頭の病気」なので、家族に負担を与えてしまう状況に、本人が心を痛めるということはないわけです。

ですが施設で一人で過ごす寂しさを考えると、正月くらいは家族とずーっと一緒に過ごさせてあげたいと考えるのは「情」からです。

 

息子にはそうした「情」という感情がないため、家族にとってはある種の「いたたまれなさ」が生まれることになります。

病気というのはこうした部分に関わる「心」の問題があるため、頭の中が正常な障害者は、どらちかを選ばなくてはならない時、「自分は施設にいる寂しさの方を取る」という人 も、結構いらっしゃるのではないでしょうか。

 

このように、体だけではなく、心の健全性にまで影響を与える障害という「病気 」と、どのように関わればいいのかを悩む者にとっては、宗教という救いがあります。

多くの宗教が病気の治癒を対象にする歴史は長く、医療が発達していなかった昔は、宣教師や和尚が医者の役割を果たしていたのです。

そして、もし施しでもって奇跡的に病気が治れば、それは布教活動の大きな助けになるという側面も持ち合わせているからです。

 

そのため障害を持つ親が宗教に「すがる」例は多いのですが、度が過ぎると「宗教」に逃げ込むことになります。

宗教との関わりというのは、関わる者の心の強さによって「癒される」レベルから「逃げ込んでしまう」レベルまで、様々なパターンが見られます。

障害者の施設へ行くと、障害を持つ娘の父親が子供に無関心となり、妻が宗教に走るという例も数多く見受けられます。

 

障害のある子供がいるために離婚をすることになり、障害を持つ子供を抱えて残された母親と施設で出会うことがあります。

こうした心の負担を分かち合う伴侶がいない方を見ると、心が痛みます。

私の場合、施設へ送り迎えには、ほとんど毎日カミサンと一緒に行くようにしているのですが、そうすることでケアの大変さを分かち合うことができますし、さらには妻の大変さも理解できるからです。

 

ですが障害を持つ親は、このような暗い部分ばかり を見るのではなく、それをうまく利用して、プラスの方向へ働かせる知恵を働かせることで、違った結果を出すこともできるのです。

というのは、こうした「病気」と関わることで畏怖の念を抱き、それがその後の人生のプラスになることもあるからです。

金の亡者のような人が、病気をしたことで金銭よりも大事なことに気づく、というのはよくあるハナシです。

 

会社人間が病気を機にして、昇進や仕事上の人間関係などの悩みから解放されることもあるでしょう。

病気は我々に命の脆弱さを認識させてくれますし、健康への感謝を喚起し、弱い者をいたわり、人を愛する心を強くすることさえできるのです。

 

 

また病気は人間だけがかかるものではなく、会社という組織も病を患うのです。

無責任、慢心傲慢、コスト意識の欠如などは、組織が頻繁にかかる病の代表で、リーダーシップ不在、債務超過、違法行為などは致命的な病です。

ですから会社も時には、幼児がかかるような軽い麻疹くらいなら、かかった方がいいのかもしれません。

 

子供が何度も病気を克服しながら体力や抵抗力をつけてゆくのと同じで、会社も様々な「企業がかかる病」と闘うことで強靱になってゆきます。

そうした意味で言えば、病気からの危機を克服したことのない会社というのは、潜在的なリスクが高いといえるかもしれません。

  

 

戦後の日本がこれだけ進歩し発展したのは、戦前に発病した病を克服したところから、生まれたのではないでしょうか。

過去にかかった病気のつらさと怖さを知っている人たちは、信念を持つことで強くなり、二度と同じ病気にかかるまいと、平和で豊かな日本を築き上げた というわけです。

中国も一時は瀕死の重病人状態となったときに「社会主義」という治療薬を導入したのですが、薬が効きすぎたため「文化大革命」という中毒症 にかかった苦い経験を持っています。

 

オリンピックが開かれるまでに成長した中国は、あたかも昔の日本の高度成長期のような勢いで成長しているのですが、これは中毒に悩まされた 経験があるからなのかもしれません。

このように人でも会社でも、あるいは国家であっても「病気」を避けて通ることはできないのです。

 

病気に打ち勝つには、病気と負けずに闘い、病気を糧に成長する知恵と勇気を持つことです。

そうすれば、病気をも利用し、自らを大きく成長させることができるのです。

 

 

出典

2008年0103 Thurs.

 

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